軟体動物とその手つき

ばらばらな時系列の備忘録

大学のミスコン・ミスターコンに思うこと

わたしの所属する大学にはミスコンとミスターコンがある。

昨日、出場者が発表されたらしい。出場者が誰かの知人の場合、RT等で目に入るのでその手の話題をフォローする気がなくても否応なく目に入ってくる。(あまり違和感を持ってなかった頃に同様のことをしたことがあるし、身近な人が何か始めたら応援したいというのは自然なことなのでRTする人自体への悪感情はない)

 

わたしは今年を含めてこの大学のミスコン・ミスターコンの動きを見るのは6回目になるけれど、ようやくそこにあるルッキズムや以外の違和感をきちんと言語化できるようになったと思う。ジェンダー規範強化については気づいていても、特にミスコンに関しては最初のルックの発表時点である程度服装の画一化が行われていて、女性の方が許される"らしさ"の幅が少ないことなどにはっきり気づいたのは最近だ。

 

とはいえそんな気づきがなくとも、わたしはミスコンミスターコンが好きではない。はっきりと嫌いである。(東大女子のエンパワメントのふりをしてルッキズムに加担するだけの美女図鑑のような嫌らしさはないにせよ)

 

ミスコン・ミスターコンは明らかにルッキズムに基づいたものである上、女性はウェディングドレスに、男性はタキシードに身を包む最終審査は異性愛規範をもとにしており、特にミスコンの場合女性は外見が美しい方が女性らしいという既存の価値観を強化しかねないものだからだ(ミスコン、という名を冠する以上はジェンダー規範と結びつく)。

しかし、今年"内面"を打ち出す候補者のツイートが複数回ってきて強い違和感を覚えた。その人たち自体主催側に選ばれて残っている人達であることを考えると、今回はミスミスターコンテストはルッキズム、という批判への対応を意識して運営しようとしているのを感じた。

けれど、内面を打ち出したところでミスコン・ミスターコンという行事自体がながらく特定数の候補者の容姿を不特定多数の投票者が評価するというルッキズムに基づいた"品評会"であったという文脈は簡単に打ち消せない。

 

むしろ、"内面"を打ち出せば候補者はよい人柄の人物として(目に見える範囲内では)動かざるをえなくなるので、主催側はとても醜悪な方法をとったのだとさえ思った。

 

候補者の内面を打ち出すことでむしろ人柄と外見の品評会と化し、元々の容姿の評価の文脈を引き継ぎ人柄の良さが外見に表れるという、最悪の発想につながりかねないようなおぞましさがある。

 

ミスコンミスターコンが人間の品評会であることはようやく今年になって気がついた。その人たち(例年のフォロワー数を見た場合男性より女性の方が多く、ほとんど彼女ら、と呼んだ方が正確かもしれない)は、不特定多数の眼差しに品評され、欲望されることになる。

わたしにとってはそれは恐ろしくおぞましいが、その人たちにとっては欲望の眼差し自体は力なのかもしれない。

ミスコンの候補者がアナウンサーになることはざらにあるし、他にもこうしたコンテストに出場することは男女問わずモデルや俳優、YouTuberとしての方向での活動に箔をつけるのにも役立つだろう。

しかし、欲望の眼差しを向けやすくする為なのか、特にミスコンは出場者は出場者の表明にあたって同じような服装(大学カラーのワンピース)に身を包んだ公式写真を一度撮り、プロフィール写真にする。

これは、一人の人間として扱うよりミスコン出場者というキャラクター商材として彼女らを売り出すことにほかならないのではないか?と思ったりもする。例えそこに両者の合意があったとしても。

本当に一人の個性を打ち出すなら自分を一番よく見せることの出来ると思う服を着てもらって出場者の写真を撮ればいいはずだが、そこでは出場者の個性をある程度均一化しているように見える。こうしてミスコン出場者という消費の対象としてのパッケージングが最初から行われているのではないだろうか。消費の合意が仮に運営と候補者の間で暗になされていたとしても、候補者はどこまで投票者(本当に投票しているかさえ定かではない)に消費されることを想定していて合意したのかはよくわからない。主体的に消費対象になっていたとしても、途中から"若い女性は公然と消費対象にしていい"と思っている人間を相手にすることが苦になることもある、かもしれない。

時々ネタのようなリプライがRTされるのを見て、ああ、彼女らはSNS上で優しく答えてくれるおもちゃでもあるのだなと思うことすらある。

仮にそこまで出場者が合意していたとしても、出場者が横柄なリプライだったり、接待を求めるようなものに丁寧に返すこと自体、"若い女性に接待をさせてよい"という規範を強化することになるだろう。ミスコン出場者とその他の女性に対応を区別できない人もおそらく存在する。

 

そういった問題意識から、参加者にとって有益だったとしても、わたしは大学の学祭で最終日の目玉行事のひとつとしてミスコンミスターコンが行われることを好ましく思わない。広告研究会が自ら取りやめることはないだろうが、学祭委員はそのことの是非を一度考えて欲しいとは思う。

ミスコンミスターコンはルッキズム異性愛規範を強化する行事であり、特に女性出場者は女性らしさを求める服装でパッケージングされることから、その性別らしさの規範もまた強化される。そしてミス・ミスターという呼称は性自認がノンバイナリーの人の存在を想定していないことも明らかである。

それが大学の学祭の目玉として行われることは、こうした規範意識を学生に無意識に刷り込んでいくことになり、それに乗ることの出来ない学生、ルッキズムから降りたい・異性愛規範から逃れたい・性別らしさを捨てたい・性自認がノンバイナリーである学生にとって、こうした規範がまだまだ一般的なことを改めて思い出させられる苦行でもある。

嫌なら見なければいい、という意見もあろうが毎年見ようとしなくても知人友人のRT等で否応なく回ってくるそれを見ずに一年を過ごせたことはないので、他のそうした規範意識を好ましく思わない学生もまた否応なく目にしていることを想像するのは難しくない。

 

世間に流通するルッキズム自体の完全な否定はあまりにも根深くて難しいし(それはわたし自身も内面化している部分がある)、自らの容姿を好ましく思うことによって救われる人もいるだろう。だから、問題は容姿による価値判断自体というよりそれの絶対化なのだと思う。

だからこそ、ルッキズムを絶対の尺度のように扱うミスコン・ミスターコンが学祭の目玉として扱われ続けることにわたしは反対する。このような文章を書こうが主催者である広告研究会は特定の会社の賞を授与するなど、利権が存在する以上自主的にやめることはないだろう。だから、わたしは学祭委員にこそ問いたい。ミスコン・ミスターコンを未だに学祭の目玉行事として取り上げ続けるのかと。

衆目を集められることは今の時代においては間違いなくひとつの力だし、学祭の集客につながるだろうが、そのやり方について、ミスコンやミスターコンを用いることが暗にどのようなメッセージ性を打ち出してしまうか考え直してほしいのだ。

大学の名前を冠して全学生がエントリーしたわけでもないのに、あたかも全学生のなかから選ばれたようなタイトルにおいて人気投票によって人を選び出していること。それはほとんど不特定多数の投票者による特定の候補者に対する人間の外面と内面両方の品評会と化してしまっていること。そして選出の基準が基づく規範によって現に苦しむ人間の存在を無視し、フォローできないまま行われていること(少数者の問題を何も気にしなくてもよい、というのはマジョリティの特権のひとつでありそれに無自覚であること)。

 

「ミスコン&ミスターコンを考える会」のTwitterにある東大新聞の記事の引用(http://www.todaishimbun.org/missmister20200408/ )にもこうした問題は指摘されていて、それでもあえてこうして大して新しくもない論点をわたしが繰り返し書くのは、こうした議論を広告研究会(もともと期待してすらないが)も学祭委員も検討した様子が窺えないからだ。外見だけでなく内面をも対象にするのだという対応は全く話にならない。外見の消費とまた別の次元の醜悪さが内面の消費に伴うことに気づいていないのだろうか。それは人格の査定、しかもミスコン・ミスターコンの名前を使い続ける以上ジェンダー規範から免れられない外見と人格の査定に成り果ててしまうという予感が個人的にはある。見なければ良い、と言われようが学祭という学内ではある程度公共性のある場でこうしたことが行われることに抗議している。し続ける。

 

違和感に気づいてから候補者の発表の度、いつもこの季節が来たな、と苦々しく思っている。来年も在学する以上、またこうした苦々しさに付き合わされなければならないのだろうか?