軟体動物とその手つき

ばらばらな時系列の備忘録

東京ノート(2020/2/28)

吉祥寺シアター青年団東京ノート」を見た。1994年初演とは思えないほど、現在においても批判的であるような作品で衝撃を受けた。それは自分が生まれる前に書かれた作品が今なお充分クリティカルに感じられてしまう、という社会の変わらなさに対しても、ではあったけれど。

わたしはこの作品を男性中心社会の批判のように見た。

〈どれほど社会が複雑化しても、親や子供の面倒は誰かが見なければならず、人々はそこから逃れられないこと。そのことが女性の社会進出を、やわらかく拒んでいること。〉という折込チラシの一文も、その見方をするための補助線のように働いていた。

 

1.戦争とその周囲

ヨーロッパの戦乱のために美術品が次々と日本に避難しているという状況設定。

2020年現在の日本政権のあり方を思えば、将来的に日本が戦争の発端に絡んでもおかしくないと感じる分、設定にリアリティを感じなかった。だからこそ戦争に対して絡む利権が浮き彫りになるようだった。

戦争で経済的利益を受けている、もしくは戦争、反戦運動に関わる描写はすべて男性に限られた。(戦火から逃れた絵を日本で見ることができる、という点では文化的な利益を全ての登場人物が得ていると言えるけれど)

 

現地での活動にこれから関わる/関わっていた人たちは大抵女性と共に登場する。そして、女性が止めようとしたり、一緒に行きたがるとそれを拒む。

 

あるカップルにおいては、ベルリンにかつて行き現地で活動をしていた男性に対し、女性がサンテグジュペリの「愛することは、参加することだ、分かち合うことだ」という言葉を引用するとき、それは自分も活動に参加したいという意志を暗示するし、実際彼女は参加したいと言うのだけど、彼はそれを止める。

そんな危険なところにいるのは自分だけでいいという善意がそこにあるのだろうということは推測できる。ただ、それは善意による疎外でもある。女性に主体性を認めないことは必ずしも悪意によるのではなく、善意によってすら起こる。

 

絵を寄贈する三橋の友人として登場する斎藤は結婚の話を持ち出す以上、彼女のパートナーであることが分かる。

彼はヨーロッパに行こうとしていて、彼女が引き止めると、結婚したくないのでしょう、と返す。仕事もあるし今は、という彼女に対してそれなら結婚することもないか、というような返答。

そもそも家に入る相手としか結婚する気もなく、だからこそ別れる、という態度をとる。ここでは齋藤の平和維持軍への参加と三橋が家に入ることが等価のように扱われ、二人の合意は生まれることがない。

三橋と齋藤、前記のカップルという2組からは戦争自体は途方もない暴力、であるけれどそれに関わることが意味を持つなら、そこから疎外されてしまうことは望まない不利益を甘受しなければならなくなる、という現状を示すようであった。

そして、経済的な利益を受けているのも劇中では男性だけなのである。一家の数人が軍需産業に関わる企業で働いていて、その企業がかなり潤っていることが明示される。

戦争という圧倒的暴力の利益は男性のみに回され、平和維持のための活動というリスクを追う行為における主体性も奪われ、活動への参加を盾に暗に家に入ることを迫られる、この女性たちの救われなさ。

平和維持活動に加わろうとすることの実存的な意味が、大学生二人(女性)の会話の中で、伝聞の語りで、「守るものができて嬉しいらしい」と示され、「女性は元から守るものがあるから」と括られる。

たぶんこれ、家のことなんだろうなと思いながら、どちらかがどちらかを背負うのではなく分け合えば、選べればいいのに、そもそも性別によって先天的に守るべきものが与えられるなんて有り得ないのに、基本的に男性はこうした部分に無自覚なように書かれる。

 

自分のいる環境が依然としてホモソーシャルで、それに従わずかつ名誉男性になるような行動もしなければい周縁にいることしか出来ない、と薄ぼんやり感じている状況で見に行ったということもあり、こうした描写は男性優位の状況に対する痛烈な批判として響いた。

 

2.家のくびき

フェルメールの絵の特徴が様々な角度から引用され、それが暗示的だったりするのだけれど、一番印象的だったのは誰の発言か忘れてしまったけれど、「フェルメールには11人も子供がいたのに絵に生活感がない」という趣旨の発言だった。

確か女性の発言で、だからこそそれは、女性に家事を担わせていたんだろう、というこちらの推測に繋がるのだけど、家、言ってしまえば家父長制を批判の射程に入れているのだな、と感じた。

 

たぶんそういう発言の後だったと思うけれど、かつて反戦運動に参加していた男性が元仲間の学芸員に対して婚約者を紹介する場面があった。

親しい人に結婚相手を引き合せる、こと自体は男女どちらの行動としても不自然ではないけれど、男性は実家へ帰って農業をするという。彼女も有機農業をやっていたしちょうどいい、というような気軽さで(そして女性は趣味のようなもので、と謙遜するのだが)。

SNSで繰り返し見るような現象ではあるものの、目眩がした。現状に甘んじない、革新的な考え方を持った男性が性別の格差には無自覚であったり、無邪気にそれを受け入れているということ。

東京から地方に連れてゆく、ということは家に入ることを求める、というだけでなく、彼女が東京で積み重ねた職業等の経験や人間関係を手放させることなのに、それに対して無自覚そうに結婚の報告をする青年。

比較的リベラルな男性においてもこうした意識は意外に根強い、というのを実感しつつあるのでこれはかなりリアルだな、と思って見ていた。

 

とはいえ数組の登場人物の中で家父長制の悪弊を感じさせるのはやはり一家ではあった。

長女だけが東京以外の場所、彼女の実家に住んでいて、それ以外は東京在住。長女は働きながら両親の面倒を見ているということが観ているとわかっていて、親の面倒を見ること自体を負担に感じてはいないというような描写はあるものの、それを問題視するのは妹のみで、兄弟は何の気なしに親のこともあるから結婚は難しいだろう、と本人のいないところで言う。

彼女は兄弟から嫌われてはないものの、その性格から何となく相手をするのは面倒な人、くらいの認識はされているようで、次女の妻に対して相手をしてくれてありがとう、というようなことを言われていたりする。

長女は一番負担を強いられながら、特に男兄弟から面倒な性格だとして遠巻きに扱われている。たぶん彼らはその負担を半ば当然のことと思ったり、本人が選んだことだから、という無邪気な自己責任論を背後にそんな言動をしている、というような描写なのだろうけれど。

 

その長女と劇中で一番長い時間を過ごすのは次男の妻で、彼女は専業主婦であり、毎日暇ですよ、という発言から一家以外に親しく関わる人がいない、社会との接点が少ない人である可能性も示される。

彼女は夫に別の好きな女性が出来たから、という理由で、今後離婚する可能性を長女にだけ漏らす。家に入ったことによって社会的な繋がりから離れた女性が、姻戚であることによってかろうじて保たれる人間関係さえ失ってしまうかもしれない、という状態にある。

姻戚であり、その婚姻関係さえ解消されそうな次男の妻が食事の場を離れた休憩しているところへ、一家の中で地理的/扱い的な点で周縁にいる長女が来る場面で劇は終わる。

高校生の頃絵の賞を取ったけれど、絵の道には進まなかった長女に、次男の妻は「わたしの絵を描いてください」と頼み、見つめあう。それぞれが違う形を持つ心で心で見ること、絵を描くのにはとてつもなく見る力が必要なこと、を長女が語った直後のその場面は家のくびきから離れて、一人の個人として互いを見つめなおし始める瞬間のようで、現実はどうにもならなかったとしても、心でつながることが救済として用意されていたんだな、と感じた。

 

3.誰とも共にいなくても

劇中で美術館を訪れた人たちの中に、1人で来ている人はいない。現実の美術館は、誰かと来ている人も、1人で来ている人もどちらもいる空間だ。

その意図としては、折込チラシに書かれた〈もう一つ、この作品の主題は「見ること」です。それも「誰と見るか」ということです。〉という主題設定は間違いなく関わっているのだろうと思ったし、だからこそ二人が見つめあう形で締めくくられるのだろうとも感じた。

体験自体が、誰と体験するかによって印象を変えるものだという実感は自分にもあるものの、誰とも見ずに、1人で見てもいいのではないか、といううっすらとした反発を覚えなくもなかった(東京ノートを見ること自体は自分にとってものすごく素晴らしい体験だったし、相当の間涙を流しながら見るくらいではあったのだけど)。

劇中の共に登場する人物は、家や結婚関係という強固なつながりで結ばれている人がほとんどで、その強い繋がり至上主義的な価値観の上に成り立つ作品であるような気がした。それ自体によってこの作品が損なわれることはないのかもしれなくても。

私自身がラブロマンティックイデオロギーが至上の価値観のように扱われることが苦手だし、制度としての婚姻もたぶん選ばないだろうと思っているので、1人であることを主体的に選ばせてほしいし、それも選択肢としてあれば嬉しい、という個人的な感慨に過ぎない。

実際、作品を多角的に見ようとするなら他の人の意見を参照したり、別の人の存在はとてもありがたいもので、それ自体は否定しないけれど、思い起こしながらしこりのようにその部分は引っかかっている。

 

4.後日、思い起こして

上記の部分は3月中旬頃に書いたものだけれど、感想として出すにも時期がずれているので下書きに眠らせていたこの文章を読みながら、上演された「東京ノート」自体は体験として良かったなと思いながら引っかかる部分はまだ残っていた。

次男の妻と長女が見つめあって終わる最後の場面は、それ自体はおそらくその2人にとって良いことで救いでもあるのだけれど、つながりを得たところで現実の問題は何も解決してない。おそらく次男の妻と次男は離婚し、長女はほかのきょうだいから離れた地元で両親と住み続けるだろう。何も変わらないのだ。

弱い人達の連帯は最後の救いではあるけれどそれによって事態が転覆するようなことがない、というのはとても現実的で、それこそ男性たちが急に同情的になるほうが不自然なように思う。それでも、そのつながりに希望を見出す抒情が誰によって彼女たちが疎外されているのかを最後に覆い隠してしまったようにも思える(当事者が希望を見出し事態を受け入れる所に着地した点において)。

彼女たちが救われたのを見ていてこちらも救われるような気持ちになったのは確かだけれど、思い起こすと結局強者が手を差し伸べてくれることなんて決してなく、自分たちでどうにか解決するか妥協するしかないという現実のようでもあり、もやもやとしたものが残る。それでもまた上演を観たら同じように彼女らが見つめ合う場面で泣いてしまうような気はしていて、このもやもやの捉えどころがまだわかっていない。